武州通信武州ゼミナールのBLOG

 『武州通信』第247号

 明日はお彼岸の中日。春の彼岸と言えば、ぼた餅(牡丹餅)。秋の彼岸ならおはぎ(御萩)。同じあんころ餅なのに季節によって名が変わる。しかも花の名を負って。何だかちょっぴり風流ですね。でも、僕には “花より餅” かな? 

 《答えのない旅》の巻

 卒業シーズン。新たな生活に向けて一息ついた中学3年生の唐澤暖君、何を思ったのか「人生は答えのない旅だよね」と突然…。他の生徒達はクスリと笑う。いや、別にバカにしてではない。唐突さとそのような言葉が彼の口から発せられた意外性からだろう。僕も、「おいおい、君がそれを言うのか?」と。それは、普段の彼の生活振りからおよそかけ離れた、あまりにもミスマッチな言葉であった。だがふと口を衝いて出た彼の「人生は答えのない旅」、これは僕の心の琴線に触れる。

 ここ数年、毎年、友人・知人の死の報を受け取る。そして、つい1ヶ月ほど前(2/26)には、塾仲間の天野秀徳さんが亡くなった(享年71歳)。彼の闘病期間中、月に一度 他の塾仲間数人と、彼を見舞い続けてきたのだが、その度に、人の “生と死” の問題を突きつけられてきたように思う。 

 人の生にはいつか終わりがある。人生とは、沈みゆくタイタニックのなかで、あくせく働いたり、スポーツで汗を流したり、読書に没頭したり、誰かを愛したり、取り留めのないおしゃべりをしたり…、しているようなもの、そんな何ともやるせない気分が押し寄せてくる。人は他人の死は経験できても、自分の死は経験できないという。自分の死は、それを迎えたその瞬間、すべてがゲームオーバー、その先はないのだから。だから人は永遠の生を夢見る。ところで、人に永遠の命があったとして何か希望がもてるのだろうか? どうやらそれも怪しい。もし永遠に生きられるのならどんな目標も結果も意味がない。きっと空しく時を過ごすことになるだろう。そんな気がしてくるのである。こうして、死を意識すると、すべてのものが色褪せてしまうのだ。そう、これをニヒリズムと言う。

 しかし、一夜が明けると、僕はまた、のそのそと歩き始める。昨夜の悪夢をすっかり払い除けて。まるで人は生きている限り何かをしなくてはいられないかのように。命が有限だから何かをしようとするのだろうか? それとも、生きていれば腹が減る、腹が減ったら美味しいものが食べたくなる、ただそんな欲望の連鎖が生なのだろうか? しかし、いずれにしても、黙々と仕事をしても、スポーツを楽しんでも、自己を見つめるために読書しても、誰かを大切に思っても…、何をしても、みんなそこに何らかの “意味” や “答え” を求めたくなる。そしてたとえ、ただ淡々と生きているように見えても…。

 右目で「死」を左目で「生」を同時に眺めると、不思議な映像が結ばれる。人はどうあがいても、この大きな世界では小さな蛍みたいにしか光れない。でも、ちっぽけだからこそ、健気に輝くどの光も愛おしくなる。生きている限りあなたはあなたのものだ。

 右目だけで眺めれば、すべてが漆黒の闇に包まれ空しくなる。左目だけで眺めれば、世界は色彩を放つけれど、世間のなかでの自分の位置が気にかかる。
 両目を開けて見たとき、初めて別の姿が見えてくる。真っ暗闇の中で、小さくそれでいて愛おしく可憐な光を放つ蛍。そこには、ただそれぞれの人生があるだけなのだ。小さく金色に輝く、しかもやがては消える、無数の光、そしてその交叉。そこにはどんな “意味” も “答え” も必要ないのかもしれない。もし答えらしきものを求めるのなら、それは “自分らしく生きられた” かどうか、…だろうか? そうかもしれない。でも、こんなの答えじゃない。そうさ、これは答えじゃないんだ。だって、あの可憐な光は、やがては消え去る運命を背負った、儚い光でもあるのだから…。
 それでも、なぜか人は、健気にも、もっと違った、生きている手応えのある “意味” や “答え” が無性に欲しくなる。そうなのだ、生きている限り…。
 ー 人生、それはまことに不可思議な謎の環である。

 こうしてみると、暖君、本当に「人生は答えのない旅、生きている意味を求めて果てしなく彷徨い続ける “答えのない旅”」なのかもしれませんね。
 たった一回の招待券しかない人生。目の前の生徒達も、明日に向けて懸命に小さな “命の光” を点している。

 《散る桜 残る桜も 散る桜(良寛)》           

(斉藤 悦雄)

【インフォーメーション】
『オアシス武州』3月31日(土)7:00p.m.~
  テーマ:『第4次産業革命が始まっている』
  お 話 :眞嶋一郎さん
『武州大学』4月14日(土)7:00p.m.~
  テーマ:ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』を考える part3
  レポート:斉藤悦雄