武州通信武州ゼミナールのBLOG

『武州通信』第258号

 何となく蒸し暑い日々。でも、さすがに陽射しは秋のそれを感じさせます。木の葉を揺らすそよ風にもちょっと遅い秋の気配が…。

《近くて遠い《下総》歴史・文学探訪 part 1》の巻
 ~ 矢喰村庚申塚と野菊の墓、それに矢切の渡し~

 雨天決行。天気予報では当日は雨? ちょっと心配しましたが、曇天ではあっても何とか予報は外れたようです。
 当日、9月21日(土)は、「オアシス武州」と「武州野外大学(第六回目)」の合同の旅、“近くて遠い『下総』歴史・文学探訪” でした。朝9時、“日暮里駅”北口に集合。三々五々集まり、今回も、女性も男性も、しかも年齢はばらばら、総勢13名の探訪となりました。引率はいつものとおり紺野正さんです。まず日暮里駅から京成線で高砂駅、そこからさらに北総線に乗り継ぎ、矢切駅へ。電車を降りると、早速、紺野さんによる “下総の解説” です。
 
 平安時代の『伊勢物語』の「あづま下り」には、在原業平と覚しき男が都を見限って東方に旅し「なほ行き行きて、武蔵国と下総国との中に、いと大きなる川あり。それをすみだ川といふ」と記しています。また、そこで、あの有名な「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」と詠んでいます。どうやら昔の下総は政治の及ばぬ棄民の地だったようです。まぁそれはともかく、大川(隅田川)が武蔵と下総の国境になっていたらしいですね。ついでに、今も残る隅田川沿いの「両国」の名も、武蔵国と下総国を挟む両方の国ということに由来しているようです。なるほどそうだったんですね。そして、隅田川よりさらに東の江戸川の東岸に当たるここ矢切(松戸市)は、昔は下総の国。― いよいよ武州の下総探訪が始まります。

 さて、矢切駅から少し歩くと、「矢喰村庚申塚」に着きます。矢喰村、それに矢切という地名も何だか奇妙な名称ですよね。その由来の碑を見ると、戦国時代、北条氏と里見氏がこの地で壮絶な戦い(国府台合戦)を繰り広げ、その結果、領民は塗炭の苦しみを味わい、やがて「弓矢を呪うあまり『矢切り』『矢切れ』『矢喰い』の名が生まれ、親から子、子から孫へと言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないようやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村を刻み朝夕お祈りをしてきました」と記されています。そうか、矢切、矢喰は、“弓矢はもういらない” という平和を誓う意味が込められていたんですね。紺野さんは「だからここは “非武装発祥の地” なんだよ」と…。うん、なるほどなるほど。

 平和の碑、矢喰村庚申塚から少し行くと『野菊の墓文学碑』(西蓮寺)に出ます。野菊の墓? そうです。明治時代に書かれた伊藤左千夫の小説『野菊の墓』です。身分制度の厳しかった時代、身分の違う政夫と民子の “純愛物語” はきっとかなり衝撃的だったことでしょう。この小説でそれまで無名だった “矢切の渡し” が世に広まったとも聞いています。おそらく、その後に続く大正デモクラシーに先鞭をつけた作品だったにちがいありません。

 台風15号が9月9日に直撃し、電柱や巨木をなぎ倒した千葉県南部(上総・安房)はこの日もまだ復旧の見込みが立たない状況でした。われらの一行は下総(千葉県北部)の旅でしたので、そういう被害に立ち会うことはありませんでしたが、道すがら、かぼちゃ畑に形は大きくても色がつかず白いままのものがたくさん放置されているのを見ると、「これも台風15号の影響かねぇ」「それとも今年の夏は暑かったからそのせいかしら」と口々に。

 それにしても自然は優しくも厳しいものです。そんな優しくも厳しい田園風景を眺めながら、われらの一行は江戸川の「矢切の渡し」へ心躍らせ、うきうきと…。若い船頭さん(30歳ぐらいかな?)のユーモアたっぷりの話を聞きながら、笑いの中の10分間、いや5分程度だったかも? の短いけれど楽しい矢切の渡しでした。

 さて、いよいよ細川たかしの歌謡曲『矢切の渡し』と逆のコース、矢切から柴又へと武州一行の旅が続きます。(つづく)

(斉藤悦雄)

【インフォーメーション】
『武州大学』10月19日(土)7:00p.m.~
  テーマ :現代『資本主義論』を考える part.3
  レポート:斉藤悦雄