武州通信武州ゼミナールのBLOG

『武州通信』第259号

 矢切(松戸市)は千葉県、だからそこが下総だというのは分かるけれど、東京都の葛飾区や江戸川区、それに、墨田区、江東区、足立区も下総だった、というのはちょっとびっくり。そう言われれば、それらは確かに隅田川(大川)の東にありますものね。というわけで、われらの下総探訪の続きは葛飾区の柴又へ…。 

《近くて遠い『下総』歴史・文学探訪 part 2》の巻
   ~フーテンの寅さんと「柴又帝釈天」~

 矢切の渡しの船頭さんは「柴又駅の “さくら像” はまるで慰安婦像だよ」と笑う。それに釣られて、みんなもついつい、くすっと苦笑い。さてどんな像かとちょっぴり興味をそそられ柴又に入る。 

 柴又と言えば帝釈天、帝釈天と言えばフーテンの寅さん。いや寅さんが柴又の帝釈天を全国区に引き上げたのかもしれない。ところで、フーテン(瘋癲)とは、精神が不安定で、定職をもたず街中などをふらつく人のことを言うらしい。「フーテン族」という言葉を世に流行らせたのも映画『男はつらいよ』(山田洋次監督)の渥美清演じる寅さんである。こんな寅さんだからこそ帝釈天の参道に並ぶ店々は寅さん一色に染まる。閑静だった矢切とは打って変わって活気溢れる柴又である。
 紺野さんが昼食のために予約しておいてくれた『高木屋老舗』は、撮影の休憩所だったようで壁面には寅さんの写真がいっぱい。… その日は “茶飯” に “おでん”。如何にも庶民の町らしい親しみ深い昼食でした。

 さて昼餉の後はいよいよ柴又帝釈天の見学。大きな門を潜ると広々とした境内、観光客が多くても狭苦しさは感じない。柴又帝釈天は日蓮宗の寺院であり、堂内には法華経の教義?を彫刻にした素晴らしい回廊が延々と続く。この一連の彫刻は10人の彫工による大正11年から昭和9年にかけての労作で、むしろ比較的新しいものだと言ってよいだろう。しかしその荘厳さは圧巻で、素人目にも胸に迫るものがある。解説者の紺野さんは「歴史が浅いからといって、これが国宝に指定されないのは何とも口惜しいね」と…。どうやら、今回の下総探訪の目玉はこの彫刻の回廊だったようである。大正末から昭和の初めといえば、平穏な大正デモクラシーから不穏な日中戦争に至る時代。もしかしたらこの彫刻には、どんな世でも “人々誰もが明るく幸せに暮らせるように” との祈りが込められていたのかもしれない。
 どうやら下総は、中央政府の思惑とは一線を画した、したたかな庶民の反骨?いや心意気?が漲る土地柄だったようである。

 ところで、先の船頭さんから揶揄され、ちょっぴり気になる柴又駅の “さくら像” は、というと、言われるほどには慰安婦像に似ておらず、少し拍子抜け。武州の “下総探訪” の終わりに、軽く微笑んで見送っているようにも見えました。 ― それはともかく、この楽しかった旅の名企画者・紺野さんに感謝。

 さて最後に、『男はつらいよ』(第36作)の中の、人生に悩む甥・満男の不安に応える寅さんの粋な言葉で、この探訪記を締めくくることにしましょう。
 満男:「ねぇ、おじさん、人間ってさぁ、何のために生きてるのかなぁ?」
 寅さん:「うーん、なんて言うかなぁ、ほら、あぁー生まれてきて良かったなぁ、って思うことが何遍かあるじゃねえか、そのために人間生きてるんじゃねぇのか。」
 ― 下総の心意気? 誰もが寅さんのように自分の気持ちに素直で前向きに生きられたらいいですね。 

(おわり)

【追記】葛飾郡について

 この『武州通信』(第258号・259号)を発行してから、何だかちょっと気になってその後調べてみたのですが、その結果、新たに分かったことがあり、ここに書き添えて置くことにします。それは…

 江戸時代より前は、隅田川を国境に、武蔵国と下総国とに分かれていたのですが、江戸時代に入り、徳川幕府の利根川東遷事業が始まり、武蔵国が拡がったようです。その結果、以下の引用に見られるように、葛飾郡の一部(現在の葛飾区、江戸川区、墨田区、江東区、足立区)は武蔵国に編入され、やがて明治時代を迎えたらしいのです。

 「近世初期1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち隅田川から利根川(現在の江戸川下流)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。」(ウィキペディア『武蔵国』)

 これによると、武蔵と下総の国境は、江戸時代初期までは隅田川であり、それ以降は江戸川ということになります。となると、われわれ一行が最後に辿った柴又(葛飾区)の心意気は、果たして下総の末裔のそれなのか? それとも新参の武蔵の陰影を反映したそれなのか?…。 こう考えてみると、寅さんの心意気もまた多少微妙になり、何だか複雑になってきますね。まぁ、この地の庶民や寅さんにとっては、そんなことどうでもいいのかもしれませんが…。              

(斉藤悦雄)